みなさん、こんにちは。
7月7日(日)、市観光商工課主催の「第30回設楽原決戦場まつり見学ツアー」に
参加してきました。
私が松里中学に通っていたころのことです。愛知県新城市(しんしろし)の人々が400年以に渡って、いわゆる「長篠の合戦」で戦死した両軍、とりわけ武田軍の御霊を供養するため、毎夏お盆に大きな松明を持って踊る「火おんどり」をNHKの番組「新日本紀行」で見ました。それ以来ずっと行きたいと思っていました。ついに、今回その願いが叶いました。我らが地域のご先祖鎮魂の旅だと思い、黒のジャケット着用で参加しました。
信長・家康連合軍は3万8千人。対する武田軍は1万5千人。連合軍は馬防柵を建て、千丁ともいわれる大量の鉄砲を用意。そこへ武田騎馬軍団が幾度となく波状攻撃をかけた結果、連合軍の戦死者6千、武田軍のそれ9千という結果になり、勝頼公は命からがら信州まで逃げ延びたわけです。
この時、勝頼公は29歳でした。勝頼公が無能な武将ではなかった証拠は、その後武田家が大和町の天目山で滅亡する7年の間に、信玄公以来最大の領土を獲得したことでもわかります。
しかし、この戦いで勝頼公は、撤退を進言する重臣の意見を聞かず、山県昌景、馬場信春、内藤昌豊、真田信綱・昌輝、原昌胤など信玄公を支えた多くの重臣が水杯の後、皆壮絶な討ち死にを遂げています。
戦闘は午前6時から午後2時ごろの間だったと伝わっています。
設楽原の馬防柵の前で撃たれる鉄砲の大音響を聞きながら、私は無念でなりませんでした。もし、勝頼公があの時重臣たちの意見を聞いていたら、武田家の運命も戦国の歴史も全く違ったものになっていたでしょうに。その時の一句です。
戦国の つわものどもの ときの声
いかまほしきは 聴く耳なりや
As if to hear the sound of the battle cry in the period of civil wars,
One of the highly desirable parts, if only I could, is to lend an open ear.
古戦場 薄暑の陽ざし 武者がゆく
我はももとせ(百年) 生き抜く覚悟
In the old battlefield proceed warriors in armor in muggy weather.
Would I be determined that I might live a hundred years.
400年の時過ぎゆきても、武田武士の勇猛さと戦いの悲惨さを語り継ぐ新城市の人々のやさしさに一番心動かされました。
甲州市と新城市の交流は半世紀にわたり続けられています。今後も市民相互の交流が進み、多くの方が400年以上前の戦場に散った将兵への想いを深くされることを希望しながら、ふる里甲州市へ戻ってまいりました。
それでは、また。
素敵な1日をお過ごしください!
See you. Have a splendid day!
(A plus tard. Bonne journe’e!)